どうも、初めましての方も、そうでない方もこんにちは。
「デザイニャーのしぐさん」です。
普段はX(旧Twitter)だったり、You Tubeだったり(インスタはあくまでもサブ)で、コロナ禍前の転職で在宅勤務になったのをきっかけになんとなく色々と呟くのを再開して早3年ほど。今はなぜか個人事業主として忙しい?日々を過ごしております。
基本的に、謎の人物像のまま活動をしていますのでSNSからの初見の方からの「お仕事の相談はDMにて」なんて文章は一言もプロフィールに入れておりません。そして、お仕事上で実績公開不可のものも多いので、もう面倒なので直請けでお聞きし易いお客様を覗いてわざわざ実績公開の交渉をしていないということもあり・・・実績すらも謎の人物として、一定の方からは警戒されているかもしれません。
簡単な自己紹介です。
小学生時代
小学生時代小学生の頃、某テレ東で放送されていた番組に触発され、プログラミングに興味を持ち簡易なプログラムを作り始める。それが高じて、将来の目標を「日本ファルコムに入社して木屋チームに入る!」という具体的すぎる謎の目標を小学生ながらに掲げてしまう痛い幼少期を過ごすこととなる。
学級新聞企画の際には、何も企画が出ない他班が多かったのをいいことに、紙面の4分の1を「自作小説の発表の場」として使わせてもらい、当時の教育実習生の担当だった先生にめちゃくちゃ感動された。
卒業時に多くの人から「あなたが将来デビューするかも知れないから」と謎にサインを要求されまくり、実に他クラス合わせて50人くらい書かせてもらったが・・・申し訳ないです、まだなんのデビューもしておりません。
中学生時代
友人たちと一緒に「ラジオドラマ(ボイスドラマ)」だの「ゲーム企画」だの「交換日記長編小説・漫画」だのを書き綴る怪しい日々を過ごす。あくまでも原作者として。陸上部・女子バスケ部・女子バレー部に勧誘され続けた3ヶ月を乗り切り、無事に「放送部」に所属。そのお陰か、コミュ障なのに話したこともない他クラスやら他学年の女子たちからよく声をかけられる謎の日々。
この頃の大親友には「将来も一緒にいようねー!」とか言われていたのだが、高校の進学先で学力差で見事に別れてしまい、彼女は高校で出会ったお友達とめちゃくちゃ仲良くなったようでその後連絡は途絶えてしまった。
高校時代
進学校へ進み、今まであまり出会わなかった部類の陽キャ・バンドファン達と出会い、格差を感じて孤立する。
さらに「ラジオドラマ熱」は高ぶり、他クラス・他校の友人たちとつるんでコンテストに応募したり、細々とノートに漫画やらイラストやら小説を書き綴ったり、本格的に漫画家デビューを目指す友人のアシスタントとしてスクリーントーンの鬼として召喚をよく受けたりとさらにさらに謎の青春時代を過ごす。全然違う高校に通っていた友人も多く、本当に謎のまま過ごす。
進路を決める頃には、なぜか私が授業で書いたイラストをめちゃくちゃ気に入ってくれていた(と後日後輩から聞いた)美術科の担当教諭(おじいちゃん)から「そろそろ受験の対策をしないといけないから、僕が見てあげるよ、毎日美術室へ通いなさい」なんて言ってもらっていたりもしたが、先生ごめんなさい。私の親の財力では美大への進学は難しく・・・。
なお大震災の被害に遭う・・・。
専門学校時代
将来を見据えて、アニメやマンガやゲームのエンタメ系だけだと何かあった時に「弱い!」と考えた高校生は、「そうだ、IT系全般ならだめだった時にSEやプログラマーとして一般企業への就職がある!」という考えに至った。この頃にはもう、「日本ファルコムへの就職」は距離の件もあり半分あきらめムードだったがよしんば行けるなら東京へ上京してみたい!と思ってもいたので、当時最先端だった「ゲーム開発」が学べる学校で必死でプログラミングのお勉強に勤しんだ。
勤しんだ・・・が、周囲のガチプログラミング勢の男子達との格差は大きく。一応は情報処理系の資格は取れるものは全部取ったが、何をどう使えば実務に役立つのやら?という状況。なお、当時「国家資格取ったら珈琲館で一番高いブルーマウンテンを奢ってあげるよ!」って言ってくれた先生には、報告のタイミングが悪く奢ってもらえずだった。
結局、クラスで班に分かれての卒業制作では「ゲーム」を1本作成したのだが、なぜか自分の担当は「ストーリー脚本/キャラクターデザイン/ゲーム画面UIデザイン/ゲーム説明書ライティング及びDTP/パッケージデザイン」に収まったことから、今考えると・・・今やってる仕事そのまんまの担当をしていたという因果な結果となる。
なお、バブルは弾けてしまった後なので就職で非常に困難を強いられた。特に在阪の某ゲーム会社の説明会で、徹底的に「業界の闇と暴言」を浴びせられてしまい、すっかりゲームへの情熱はなくなってしまった。
その2へ続く
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