どうも、初めましての方も、そうでない方もこんにちは。
「デザイニャーのしぐさん」です。
簡単な自己紹介の続き、「デザイナーになるまで」です。
新卒の頃
ゲームへの情熱がなくなり、現実面で郊外都市だと時代的には「女性はIT系の職業に就けない」または「事務職か受付としての採用条件で、その業務に加えて男性と同様のIT系業務の二重(しかし給与は事務職レベル)」という条件でない限りは採用がないと思い知り、とっとと方向を変えて「工事系」「CAD」「電気系」の業種に絞って就活。
最初は、高校のネームバリューのお陰(進学校)で地元第一の建設会社に採用が決まったが・・・まだバブルが弾けたのにまだまだバブルの名残があったのか、歓迎会でめちゃくちゃトラウマになるレベルの事件が勃発。周りはすでに成人した大卒ばかりだったため、昼間から酒盛り、かつ、土方系の男性から執拗に責め立てられまくった結果、飲み会&男性恐怖症となりそのまま辞退をする結果となる。(ちなみにこの恐怖症はその後10年くらい尾を引くこととなる)
その後、大きな会社は当たらずなんとか某大手電気工事会社の下請けをしていた個人事務所で採用頂いたが非正規での採用。時給にして600円の話。
ずっと配線を書いていたが、意外と楽しかった。ただ、おじさん経営者と二人きりで10時間近くを過ごすというのはなかなかの苦痛があり(当時は男性恐怖症持ち)、結局色々あって2年くらい頑張って辞めることに。当時は一度でも退職すると二度と普通の正社員の道を歩めない!という「第二新卒」のワードがこの世に生まれる前の話しだったため、絶望しながらの次の職探しをすることになる。
第二新卒 〜職探しの日々〜
すぐには次が見つからず、かと言って男性が多い職場は無理。
美人でもないし、どうしたらいいのか分からず、とりあえず若さを武器にハロワや地元ミニコミ誌等で「短期アルバイト」「期間限定バイト」でつなぐ生活。この頃、親の自営業もうまく行かずでなかなか苦しい日々が続く。焦る気持ちだけがあるがどうやっても地元にいる限りは正社員を目指せない。かと言って家を出ると親が生活できなくなる(私も結構お金を入れていたので)。
そんな時、偶然目に入ってきた「1ヶ月だけのアルバイト」。
仕事の内容は、報告書をPCで体裁を整えて版下を作って印刷会社へ入稿できる形にする、というもの。
それ以外の条件は特になく、フルタイムで1ヶ月程度で1冊を仕上げるという内容(数百ページあった)。
見つけた瞬間、ハローワークの担当の人に繋いでもらい、近所だったのでその足で面接へ向かってその日のうちに「お願いします」ということに。
事務所は会計事務所兼経営コンサルタントの会社だった。
穏やかそうな事務所の方3人(おばさん、おじさん、お姉さん)と、経営者の所長のおじいさん。
「本当にこの素人が版下を作れるのか?」と半信半疑だったようだったが、どうやら所長が「やってみてもらいなさい」と後押しをしてくれていた様子。
そしてなんと、私は版下を作ることができたのであった!
未経験なのに経験者
高校時代の部活「文芸部」での「普通の印刷会社への冊子版下の入稿作業」という特殊な経験が、なんとここでものを言うことになった。
誰にも聞かずにサクサク作っていく私。
レイアウトは趣味でずっとミニコミ誌のマネごとをしていたのが功を奏したのか、全然問題なく普通にデザインしてレイアウトを作っていったので、逆に驚かれた。
「美大出身だっけ?」
「いえ、IT系のプログラミングの学校出身ですよ」
とかいう会話があったりなんかして(美術は得意だったけどもね)。
まだまだ職探しの日々
結局、事務所の方々に気に入って頂いて、1ヶ月の予定が半月で仕事が終わってしまったにもかかわらず、他の分もとお願いされて2ヶ月まで延長頂き、まったりとしたDTPライフを思わぬところで過ごすこととなった私。
しかし、最終的にはまた「職探しフリーター」の日々に戻ることになる。
再び、すぐに正社員になれる応募先が見つからず、1週間の短期バイトや1ヶ月の派遣などで食いつなぐ私。22歳前後の「大学なら新卒」でも就職できない人たちが溢れていた時代だったからこそ、バイトの先があったのかもしれません。その頃にはまだスマホもなく日常生活にインターネットが今ほど広まっていなかったのもあって情報収集ができていませんでしたが、当時の40代50代の方々はどうしていたのやら。
あっ、バブルに乗ってまだ豪遊していたのか・・・。
バレンタインの2週間だけのラッピングバイトに、花屋の問屋さん(市場)のバイト、食品工場の配送センターの倉庫業のバイト、生い立ちビデオのアニメーション制作と編集のバイト、イラスト・カットの制作、商店街の年末福引の数日だけのバイト等など。色々な短期バイトをしました。普通の接客だけはやったことないままでしたが。
そして、再び1ヶ月の短期バイト(データ入力)のお仕事についた時のことでした。
やってきた転機
ある日、いつものようにバイト先から戻ってきた時、自宅に1本の電話がきました。
以前バイトした「経営コンサルタント事務所」からのお電話でした。
また冊子作成のアルバイトがあるのかな?と思っていたら。
「所長がコンサルやってる企業のいくつかで人を探しているので、あなたなら真面目だし信頼できる人だと思ったので紹介したいのだけど、まだ就職先探しているかな?」
急いで事務所へお伺いしてみると、「3社くらい紹介するので、好きなところ選びなさい。もし面接で気に入らなかったら他を探してあげるよ」と嬉しいお言葉が!!!
真面目に生きてきてよかった〜〜〜〜!!!!!
元々電気系の事務所にいたので、ひとつは工場系の機械オペレーター。
もう一つは、一般企業の裏方技術職(よくわからん)。
そしてもう一つが、印刷会社のデザイン部門立ち上げメンバー。
最後の「デザイン部門の立ち上げメンバー」というのが、当時まだまだ世間には知られていなかった「グラフィックデザイナー」という職種だったり「DTP」だったりという言葉に相当するのだったのですが、当然ながら私はそれを知らず(プログラマーかSE志望でしたので)だったので、内容をよく聞いてみたら。
「Mac(PC)を触れる人がいないので、ぜひ」
というではありませんか。
学校のゲーム制作でMacと慣れ親しんでいたものの、まだまだ当時はMacといえばご家庭にお迎えしようと思ったら中古でも40万、50万程度はするような代物です。貧乏だった私の家にそれがあるなんてことは絶対にありません(PC98なら中古の買ってたけど)。
とりあえず、そのデザイン部門というのが何なのかわからないまま、面接を受けて・・・なんか知らないうちに翌日にはバイトを辞める旨を伝えたらそこの社長から暴言吐きまくられて嫌な思いをしつつ、一週間後には人生初の「社会保険の保険証」を手にしていたのでありました。
そう、何故か学生時代には一切思っても居なかった「デザイナー人生」が始まったのでした。
あの時、機械オペレーターを選んでいたら・・・とその後何度か思ったというのは秘密ですが、選んでいたら今頃私は何をしていたのでしょうね。あっちもとても気になった(きっとあっちの方が対人関係は良かった気がする
その3へ続く
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